コロナの世の中で考える。アランの『幸福論』

幸福になれるかどうかは根本的に個人のコントロールを超えている――と拙著では繰り返し強調しました。これに対して《ひとは努力によって幸福になれる》と主張している(少なくともそのように見える)哲学者がいます。それはアラン(1868-1951)です。本ノートではアランの幸福論の一側面へ光を当ててみたい。彼の議論は私のそれとかなり性質を異にしますが、私は彼の議論も「深みがある」と考えています。アランの哲学はときに「浅薄」と言われることがありますが、私はどうもそうした評価に与したくないのです。

要点を繰り返すと、アランが「浅薄」と言われることがある、という現状を踏まえて、本ノートは《それは必ずしもそうでない》と指摘することを目指します。

アランの本名はエミール=オーギュスト・シャルティエ。「アラン」というのは筆名です。彼は地方紙に定期的に短文を掲載していたのですが、この短文の中から「幸福(bonheur)」というテーマに関わるものを選んでまとめたのが彼の有名な著書『幸福論(Propos sur le bonheur)』です。以下においては、この作品に即して、アランの幸福論(の私が是非とも紹介したい部分)を確認します。

1. 外的条件がたまたま与えられたうえでの幸福

先にも触れたように、アランは《ひとは努力によって幸福になれる》と考えていますが、彼の考えを理解するには彼の語る「幸福」の意味を掴むのが重要です。以下、その意味の如何を考えながら、『幸福論』からの引用をひとつ読んでみましょう。

子供たちには、幸福になる技術をよく教えなければいけない。不幸が降りかかってきたときに幸福でいる技術のことではない。そちらはストア派におまかせしよう。私が言うのは、まあなんとかやっていける状況で、人生の辛さもせいぜいちょっとした退屈や不愉快というときに、幸福になる技術のことである。
そのための最大の決まりは、自分の不幸を絶対に人に言わないことである。現在の不幸も、過去の不幸も。頭痛、吐き気、胸焼け、腹痛のことを人に説明するのは、いくら言葉遣いに注意したところで、失礼なふるまいと見なされて当然である。不当な仕打ちをされたとか、落胆させられた、といったことも同じだ。子供にも若者にも、そして大人にも、愚痴をこぼすのは他人を不快にするだけだ、とよくよく言い聞かせなければならない。
[…]
なぜなら、悲しみは毒のようなものだからだ。[…]誰もが生きようとしている、死のうとはしていない。だから誰もが、生き生きと生きている人、つまり満足を口に出し、行動にも表す人を求めている。めいめいが灰の上で不平を言っていないで薪を火にくべはじめたなら、社会はどんなに暖かくなるだろう。
(村井章子訳、『幸福論』、日経BP、2014年、576-577頁)

アランの言っていることは、ツイッターやフェイスブックなどのSNSを念頭に置くと、分かりやすいと思います。例えばツイッターで四六時中「つらい」や「しんどい」とつぶやいているアカウントを見ると、どうもこちらまで暗くなり、敬遠してしまう。アランの言っていることは《みんなが愚痴るのを止めればその分だけみんなの幸福は増す》などと表現できるかもしれません。

もちろん――アラン自身認めるように――こうしたやり方は愛するひとの死や極度の貧困などによる不幸に対処できるものではありません。とはいえ、幸福の外的な条件(それなりの健康や財産など)が与えられている場合には、〈不必要に不幸を増大させない〉という目的のためアランのやり方は役立つと言えそうです。けっきょく、アランの語るところの「幸福」は〈外的な条件がたまたま与えられたうえでの幸福〉というようなもの。こうしたものであれば、アランの考えるように、努力によって得られると言えるかもしれません。

アランの幸福論をもう少し見てみましょう。例えば彼は〈不幸になるのが簡単なこと〉について次のように書きます。

不幸になることや不機嫌になることはむずかしくない。楽しませてもらうのを待っている王族のように、ただ座っていればよい。幸福を待っていて品物のように値踏みする人には、すべてのものが退屈に見えてしまう。こう言うひとは、差し出されたものに片端からけちをつけるだけの権力を持っていて、威厳だけはたっぷりある。だがそこに焦りや怒りも潜んでいるのを、私は見逃さない。子供が花壇を作るように、ほんの少しのものから幸福を作り出すすべを知っている人々への焦りと怒りである。(『幸福論』、582頁)

ここでは、幸福を待つ人間は、自分にやってくるものを値踏みして、却って積極的にそこに不満足な点や欠点を見出してしまい、その結果、不幸になる、ということが語られています。アランによれば、「待つ」という態度は幸福を排除しがちです。むしろ、「積極的に取り組む」という態度の方が幸福を呼び込みやすい、ということ(あるいは正確には、〈物事に積極的に取り組んで没頭すること〉それ自体が幸福なのだ、ということ)。これは例えば、アランの「やってもらうのではなく自分でやることが、喜びの本質である」という言葉に表現されているような事柄です(『幸福論』、297頁)。アランにおいてはある種の没頭が幸福の条件だ、という点は後でふたたび取り上げるのでよく覚えておいて下さい。

2. アランに対する中島義道の批判

まず――問題の批判の話に進む前に押さえるべきこととして――中島は、彼の原理的なスタンスとして、幸福を素朴な仕方で大事にするひとを「害悪的」かつ「欺瞞的」と見なしている。すなわち彼は、幸福を素朴な仕方で大事にするひとを「幸福でありたい症候群の人々」と呼び、こうしたひとが次のような害悪をまき散らすと言います。曰く、

社会的に幸福ゲームを強要し、それに乗らない人を排斥し、真実を見ようとする眼を曇らせる。(『不幸論』、88頁)

具体例で説明すれば以下です。すなわち「幸福でありたい症候群の人々」は例えば《正社員になれないと不幸だ》や《遅くとも30代で結婚できないのは不幸だ》などと本気で信じており、それを実現するために他人の都合を顧みない仕方で行動する。そしてそうしたひとは、他人にもこの価値観を強要し、他人をこの仕方で幸福にしようとおせっかいをやき、こうした「幸福ゲーム」に参加しようとしないひとを非難したり排撃したりする。この点で彼ら・彼女らは「害悪的」だと言われます。

とはいえこれだけではない(と中島は言います)。ひとはみな何かしらの不幸を背負っている。例えば、幼いころに虐待を受けていたり、身体的なコンプレックスがあったり、将来の展望がない境遇にいたり、など。それなのに「幸福でありたい症候群の人々」は、自分の不幸から目を逸らし、自分を「幸福」と思い込もうとする。そのうえでこうしたひとは、不幸を邪悪なものと見なし、不幸に甘んじているひとを虚弱・怠惰・下劣と見なす。このように「幸福でありたい症候群の人々」は、人間の誰しもが背負う何らかの不幸を(とりわけ自分自身の不幸を)見ないという点で「欺瞞的」なのだ。――と中島は考えます。

以上のような観点から中島はアランを批判します。先に、アランが愚痴を言うべきでないと主張していることを見ましたが、これについて中島は以下のように指摘します。

アランと私は世界の別の側面を見ている。アランは不平を言う人が嫌いである。その人はその場の雰囲気を暗くするが、そういう権利はだれにもない、とアランは信じている。だが、私は暗い状況なのに、あえて明るくふるまう人が嫌いである。彼は真実を見ないことを私に提案するからである。真実を見ないで、「幸福である」という錯覚に留まりつづけることを私にささやくからである。(『不幸論』、92頁)

引用の言葉を理解するためには、中島の独特の現実認識を押さえねばなりません。そしてここがなかなか難しいところなのです。中島は以下のように考えています。

じつに――先にも述べたとおり――ひとはみな何かしらの不幸を背負っており、自分を不幸だと思わずに生きているひとは何らかの仕方で自分の不幸から目を逸らすことに成功しているだけである(それゆえそうしたひとも、真実へ目を向ければ、自分の不幸に気づく)。例えば飲食チェーンのワタミ創業者である渡邉美樹は、2014年の国会議員年収ランキングにおいて12億円という桁違いの額で一位を獲得しており(二位は鳩山邦夫の約3億円)、ある意味で「幸福」だと言えるだが、彼の幸福は例えば〈ワタミの子会社で過労自殺をしたひとのことに目を向けないこと〉によって成立しているとも言える。じっさい、自分が主導権を握っていた会社で過労自殺が起ったという事実に本気で目を向けるならば、自らの負い目の不幸を感じざるをえないだろう。一般的に、成功者には何らかの傷がある。絶対的に幸福なひとなどひとりもいない――これが中島の世界観です。

それゆえ〈人間の不幸な現実へ目を向けること〉を奨励しないアランは、中島にとって、欺瞞の推奨者の一種になります。そして中島は、真実を見ることを重視し、次のように書きます。

そして、――アランとは逆に――私は不平を言う人が嫌いではない。なぜなら、それは「正しい」のだから。この世のいかなることでも、それを直視する勇気をもてば、生きていく気力もなくなるほど理不尽であることは、自明なのであるから。(『不幸論』、92頁)

こうした引用を読むと今度は、中島の方は「非常識だ」という感想が生じるかもしれませんが(中島がアランを「平板で常識的」と評したことはうえで確認しました)、これは彼自身の望むところである。実際、中島は次のように言う。

アランのような感受性のほうが一般的であることは百も承知である。[…]
ただ、幸福教がわが世の春を謳歌している祖国で、きわめて少数ながら私と似かよった感受性の人が虐待され迫害されていることを見るにしのびず、そういう人にわずかにエールを送りたいだけである。厳密には、この世にはだれにとっても、幸福はないのだ。世の中でまかり通っている幸福とは、「幸福であるという幻覚」[i]なのだ。こういうことを漠然とでも感じている人に対して、「そう、その通りだよ」と言ってやりたいだけである。
(『不幸論』、93頁)
[i] 引用のさいに「幸福であるという厳格」と書き間違えていたものを正しく「幸福であるという幻覚」と修正しました。[2020/05/06 加筆]

中島の考えでは、日本には「幸福でありたい症候群の人々」が多数派です。ここでは大半のひとが、《私たちは幸福を目指すべきだ》と信じ込み、こうしたゲームに乗れない少数者を「奇人」だの「変人」だの非難して迫害しています。このバランスの悪さが我慢できない、というのが中島の立場だと言えます。多数者はいわば「幸福イデオロギー」の偏向性に気づくべきだ、と彼は主張しているわけです。

3. アランのひねり

中島によれば、幸福なひと(これは「自分は幸福だ」と思っているひとだが)は、自らの不幸に目をむけないことによって自らを誤って「幸福だなあ」と思いこんでいる。言いかえれば、《幸福には無知や欺瞞が伴う》というのが中島の指摘です。そして中島はこうした事実に目を向けない点でアランを「平板で常識的」と批判するのです。

とはいえ――面白いことに――「常識的」に見えるアランもまた幸福のこうした複雑な側面に気づいているかもしれません。ひょっとしたらアランは、一見そう見えるよりも複雑な人物であるかもしれないのです(と言いつつ私は、中島のアラン批判は十分面白いものだ、とも考えています)。以下、この点を確認しましょう。

アランは例えば次のように書きます。

私の好みで言うと、誰よりも幸福な人間は警察署長である。なぜなら、絶え間なく行動している身体。それも、絶えず変化する予測不能な状況の中で。火事もあれば水害もあり、地滑りもあれば建物の倒壊もある。敵は泥だったり、埃だったり、病気だったり、貧困だったりするし、ときには喧嘩やお祭り騒ぎに駆り出されることもある。
こうしてこの幸福な人物は、決然たる行動を必要とする明白な問題にひっきりなしに直面する。あれこれの規則などないし、無用な書類もなし。お役所的な報告書を書いて、誰かを非難したりなだめたりする必要もない。そんなことは役人に任せておけばよろしい。警察署長の仕事は、五感を総動員し、そして行動することである。知覚と行動という二つの水門が開かれているとき、生命の流れは軽やかな羽根のように心を運んで行く。
(『幸福論』、272頁)

現代の私たちにとっては「警察署長」を「政治家」と言い換えると分かりやすくなるかもしれません。面倒な事務作業はすべて秘書に任せて、判断と決定の現場に立ち続ける政治家(そんなひとは少数だろうが)は、自分のやっていることにつねに充実感を抱き、きわめて幸福な状態にあるでしょう。

さてここで生じうる問いがひとつ。なぜ「警察署長」は幸せなのか。これに対してはアランはどう答えるか。すでに述べたことと関連しますがアランは、ひっきりなしに仕事に追われる警察署業は行動に没頭できるからこそ幸福だ、と考えています。曰く、「行動は意識を消し去る」のだが(『幸福論』、273頁)、このように〈ものを考えないこと〉が幸福の重要な条件なのです。

よくよく考えれば、この発想は中島の考え――ひとは、自らの不幸な現実へ目を向けないことによって、自らを「幸福」と思い込むという考え――に、ある点で似ています。すなわち中島とアランは《幸福の前提には無知や無視がある》と考える点で軌を一にしている。そしてアランもまた、このように考えることによって、幸福の悪しき側面を見据えていると言えます。
とはいえこれだけではありません。さらに注目すべきは、アランが先の引用の続きで次のように書いている点です。曰く、

人が戦争をするのは、そこでは行動に耽溺できるからだ。[…]行動の恐るべき力は、ここに由来する。行動は思考というランプを消してしまうので、何とでも自己正当化ができるのである。行動が始まると、思考が生み出し膨らませたうすっぺらな情念、たとえば憂鬱、厭世観、策略、欺瞞、怨恨、あるいは芝居がかった愛情、巧みな悪徳などは消えていく。(『幸福論』、273頁)

ここでアランは、行動に没頭しさえすれば、たとえそれが戦争であっても、良きものと感じられる、と指摘しています。これは或る意味で「とんでもない」考えですが、それでもよく分かる指摘だと言えます。じっさい、没頭は《こんなことをして良いのだろうか》という疑いを締め出す。そしてこのようにしていわゆる「行動のひと」は、何でも行なうことができ、何にでも幸福を見出すことができるのです。

だがそうであれば〈行動に没頭することによって幸福になること〉は危険なのではないか、と問うひとがいるかもしれません――この問いに対するアランの答えは「然り」でありえます。すなわち彼曰く、

こうしたわけだから、絶えず行動している警察署長が幸福な人間だとしても、有益な人間だと言うつもりはない。(『幸福論』、274頁)

言い換えれば、個人として幸福な人間が社会にとって有益であるとは限らない、となるでしょうか。あるいは、幸福の追求は他者の迷惑になることがある、とも表現できるかもしれません。「幸福論」と名のつく文章は幸福のこうしたダークサイドへも目を向ける必要があるのですが(少なくとも私はそう考えます)、アランもそれを見過ごしてはいません。

以上を総合するとアランと中島が似たようなことを語っている可能性に気づかれます。そして、もしこの可能性が現実なのであれば、どちらも同じ重要な事柄を指摘していると言えます。最後にこの点を説明すれば以下。

例えば、高杉良の小説『青年社長』(渡邉美樹の伝記)を読むと、渡邉美樹がバリバリの行動の人であることが分かります(フィクションが含まれていることを割り引いてもそうです)。他方で彼は、よく知られていることですが、そうした行動によって無視できない意味で〈社員を酷使する会社〉をつくり上げ、結果として平成20年にひとりの若者がマンションから投身自殺することになりました。ひとりの人間の行為への没頭――アランによればこれこそが「幸福」に他なりませんが――はこうした悲劇を引き起こしうる。一方で中島にとっては、他人を不幸に陥れている以上、渡邊は「幸福」でありえないのですが(これが中島の幸福の捉え方であり、この点については『不幸論』の43頁以降を参照)、アランと中島の評価の違いは「幸福」という言葉の使い方の違いによるでしょう。というのも中島は、幸福の条件のうちに〈他人を不幸にしていないこと〉と含め入れているからです。他方で同時に注目すべき点は、中島もアランも《渡邉の行なったような行動への没頭が他者を苦しめうる》という同じ事態を見ている、というところだと言えます。要するに、両者はともに《或るひとの幸福の追求は他人の不幸を引き起こしうる》という事態を見ている、ということです。

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