天気の子 感想

 本日Amazonで「天気の子」を見ました。

 まぁこの作品「新海誠」作品ということで、やはりね注目度が、ものすごく高い。

 やっぱり2016年公開された「君の名は。」で完全にヒットメーカーとしての地位を確立したと言っても過言ではない。

 まぁ僕ね「君の名は。」に関して言いたい事もある。そういう立場ではあるんですけど。とにかく前作の大ヒットがあるので、ここまで注目されるのも納得ではあるんですね。

 で、これも前作の大ヒットのおかげでもあるんですけど、「新海誠監督よ、今回はどれほどの物を用意してくるんだ」とかなりハードルが上がっている状態での今作品であるということも、もう否定できないわけなんですよ。

 という前提でリリースされた「天気の子」

 まずその話をする前に、ざっくりと僕が「新海作品」についてどう思っているのかをおさらいというか、ちょっと話したいんですけど。

 僕ね「君の名は。」振り返らなければよっかったのに派なんですよ。

 これどういうことかというと、「君の名は。」これね新海監督のフィルモグラフィーを見ると、「君の名は。」がどうして振り返って終わるのか。それは理解できるんですけどね。

 つまりなんだろう、あのラストシーン、僕はものすごく説明的でもう少し余韻を残して終わるべきじゃないのかって当時思ったんですよ。つまりものすごく、「ハッピーエンド」ですよ感というのが、逆に物語を窮屈にしている感じがしてね。

 まぁこれは「秒速5センチメートル」という作品で新海監督が描いたラストの真意が観客に伝わらなかったからだとも言えてね。

 ちなみにこの作品は簡単にいうと、主人公のタカキが初恋の相手、アカリのことを忘れられず、どこかで彼女と奇跡的な再会をして、また恋をすることができるんじゃないか。という初恋への憧れを忘れられない、心底「夢」に生きるというか、現実を見ない、「初恋」という「夢」に呪われた男の話だと言える。

 アカリはもうね、他の男と結婚をしている。もう、タカキのことなんか忘れてるんです。

 そして、ラスト。タカキがアカリとすれ違う。でも彼女の指には指輪が。そしてタカキはすれ違った後、踏切で、電車が通り過ぎた後、彼女が進んでいった方向を振り返るんです。でもそこにアカリはいない。

 これを多くの観客はバットエンドと捉えたんですね。

 でもこれ、実はタカキは微笑している。つまりこれでようやくタカキは「アカリ」という初恋、初恋という名の「夢」「夢」という名の「呪い」からようやく解放された。つまりこれ「呪い」から解かれる。つまりこれ以上ない「ハッピーエンド」

 ものすごくビターで、味わい深い、大人な着地なんですよ。

 ちなみに他の新海作品でも、男女の、それも普通では考えられないような距離感だったりスケール感、そのスケール感に翻弄される男女の関係を描くことが多く、着地はこういうビターな感じ、これが彼の持ち味だと言える。

 僕はこのビターさこそ、つまり安易に「ハッピー感」を出さない。ほろ苦いけど噛めば「甘い」くらいのバランスが好きなんですよ。

 でも実際その真意は伝わりにくくて。

 「君の名は。」ある意味で「秒速5センチメートル」のリメイク的な作品で、本来の彼の作品の味とは違い、ものすごく「ハッピー感」を出して終わる。

 ある意味で今までの逆張りをした作品なのだ。

 それが大ヒットした。

 こういう流れがあるので、今回はどういう作品に仕上げてくるのか、そこはものすごく期待してたわけなんです。

 で、「天気の子」ね。

 ちょっと物語の本筋にも触れちゃうので、ここから先、ネタバレを含んじゃうんですけど。

 あとね、「天気の子」好きな人。ちょっと不快になっちゃうかも・・・。この注意書き自体が、僕の論評のネタバレみたいなものですけど。

 僕は別に今作品のラストでの主人公、帆高の決断自体には文句はない。この映画で描かれた物語だけ見ると、納得もします。

 まずオチの話。

 大人なら、世界をすくって陽菜を見殺しにする。でも彼は、それでも、それでもと、彼女を選んで、世界を壊した。

 要は最終的に自分の愛する者を救うには、世界の在り方が変わる。世界が壊れてしまう。そしてきっと「大人」ならば世界を救わなければならない。でも穂高にとっては、陽菜のいない世界はもう正常な世界ではない。

 もしもこれがヒーロー映画なら、きっと世界を守るために穂高は陽菜を捨てたに違いない。でもこれはヒーローの物語ではない。

 穂高は違う。陽菜を救うために世界を壊した

 この物語「抵抗」の物語なのだ。

 取材で断片的に明らかになる「天気女」のエピソード。

 天気を異常だとか予報士はいうが、それは、人間が決めた基準。雨が何日降り続こうが、それが記録的とか言われようが、その記録なんてものは、地球の年齢から見ると些細なこと。人間がおこがましく、それに口出ししてるにすぎない。

 彼女を生贄に「晴れ」を得ることが良きこと、それも人間基準の判断にすぎない。

 さらに今作はかなり法律を破るのも印象的だ。そもそも、法律も人間の決めたこと。

 だから穂高たち主要人物は幾度も「法律」を破る。

 「法律」も人間が決めた、模範として生きるための基準だ。「晴れ」がいいという価値観もそうだ。

 そうじゃない、そういうものに囚われない。彼女を救うには、そういうものに抵抗するしかない。

 思えばこれも新海誠作品のキモだった。

 彼の作品は常に「抵抗」がテーマ出会った。

 「元々世界は壊れていた」

 「元々東京は海だった」

 「だからそれが元に戻っただけだと」

 大人は彼らの決断を、彼らの心の傷にならないように慰める。

 でも彼らは、自分たちがした決断は、世界を壊した物だと、そしてその上に成り立つ世界で生きることを決める。

 ある意味で、責任を背負い生きる。咎を背負い生きることを決意する。「抵抗」して世界が壊れたことを自覚している

 その瞬間、二人が再会して物語の幕が下りる。

 そう考えると今作品でのオチはなんら、なんら、違和感のない着地だったと思うんですよ。

 ただね、僕はどうしても「世界」を壊すこと。「抵抗」することで、失われた物。

 つまり「人命」ですね。それをあまりにも軽んじ過ぎているという気がしてならない。今回、そこの部分を全く描いていない。これは新海監督は意図的にやっていると思うんですけどね

 前作「君の名は。」では3.11の震災のメタファーとして「彗星災害」を描いている。物語の主軸はこの危機をいかに回避して、多くの人命を救うのか。瀧が三葉を救うのか。そこがメインだった。

 ちなみに今作でも瀧、三葉は登場しますね。特に三葉は大変ですね。故郷は隕石で吹き飛んで、ずっと憧れていた東京暮らしは、大雨によって東京が水没し終わるという、とんでもなく不幸。

 まぁちょっと話が横道にそれましたが。

 要は、エンタメだからこそ、如何しようも無い現実。打ちのめされるような大災害を経験した僕らが、せめて虚構の世界でくらいは「救い」があってもいいじゃないか。そしてその要素に感動した方々も多いと思うんです。僕もオチに言いたいことはありますが、この物語の展開は本当によかったと思っていたんです。

 ただこの要素は非常に批判された。

 これは新海監督のインタビューからの抜粋だ。

 「『君の名は。』は災害をなかったことにする映画だという意見をいただいた。僕は災害が起きるであろう未来を変えようとする映画、あなたが生きていたら良かったのにという強い願いを形にした映画を作ったつもりだった」

 「でも代償なしに死者を蘇らせる映画だとも言われて…。どんどん広がっていき、本来なら見るはずがなかった人たちが映画を見て、結果、出てきた言葉だと思う」

 今作は最初から注目を集めている。「君の名は。」を批判した観客も見るだろう。

 「彼らが怒らない映画を作るべきか否かを考えたとき、僕は、あの人たちをもっと怒らせる映画を作りたいなと。人が何かに対して怒るのはすごく強いエネルギーが必要で、『君の名は。』は少なくとも何かを動かしたわけです。そういう気持ちが『天気の子』の発想につながっていった」

 こういう経緯があってなのか、今作品で全く人命救助はおろか、「大雨被害」長雨、異常気象の負の部分を全く描かないのだ。

 現実では大雨により苦しんでいる人々がいる。川が氾濫し亡くなる方もいる。前作での批判である、災害をなかったことにする映画だ。という批判を受けて、そこは敢えて見ぬふりする、それを描かないという、あまりにもねじ曲がった答えを出した新海監督。

 災害で起こり得る人の死を全く描かない。

 これは僕は、はっきり言って「間違っている」その発想でこんな物語なんて作るべきではなかったと思ってます。

 さらにはノベライズのあとがきでは「正しくなくていい」ということを考えたとも言っている。

 確かにそうだ。映画に限らず、多くの作品というものが全て道徳的である方がいいなんて僕は微塵も思わない。

 現実で見るとそれは目の覆いたくなるようなものを見せる、それも映画だ。その自由さは否定はしない。

 でもこの「正しくなさ」に僕はどうしても納得できない。

 要は僕がこれまで言ってきたこと、要は今現実にある大雨災害の被害。負の部分。それを描かない、描かずに、「正しくなくていい」と主張するのは僕は違うと思う。

    「正しくなさ」を描くのであれば、切り捨てるものが何なのかを明確にする。

 せめて穂高と陽菜は、この負の側面と真正面から向き合うこと、そういうシーンが必要だったんじゃないかな。

 その大雨による被害からも世界を救うために努力しようとする描写が必要だったんじゃないかな。

 それをすると、はっきり言って、物語をうまく運べなかったと思いますが、せめてニュース画面で「被害」とかそういう描写が必要だったんじゃないかなぁ。

 それを受けて二人が悩むシーンとか、そういうのがないと、逆にあまりにも御都合主義的すぎると思うんですよ。

 そういう被害の側面、失われた人命の側面、それが描かれてこそ、穂高のする決断、その多くの人命や世界の秩序よりも陽菜を選ぶということへの感動というのか、納得度合いがますのではないか?

 「世界」よりも「愛」を選ぶことをきちんと描けたのではないか?

 それともこの作中世界では「警報」が出れば全ての人間を避難させて、安全な場所で保護することができる、防災的に完璧な世界だったんだろうか?

 少なくともそうは描かれてなかったと思う。

 僕は少なくとも「君の名は。」で描かれた、虚構でだけは「救い」があってもいいんじゃないか。

 そういうスタンスはよかったと思ってますし、そこで二人が必死に「抵抗」する姿。

 三葉が転び、それでも立ち上がり、手のひらを見てまた立ち向かうシーンなど。

 「君の名は。」のそういう部分に感動した。

本当に素晴らしかったと思っていただけに、「天気の子」はそこを描かない。どころか無きこととしている、そしてさもそれが狙い通りだとする新海監督の姿勢に、心底不快な印象が残る作品になってしまった。

 切り捨てるものを描かずに、「正しくない」ということを描こうとするのは作りとして卑怯だ。

 もちろんこういう批判も織り込み済みで、しかもこのバットエンド感漂う感じが、確かに彼の作品らしさ。だといえばそれまでかもしれないけどね。

 というわけで、これをどう捉えるか、見た人と意見交換したいなぁと思う作品でしたね。

 まぁ僕はちょっと今作品は新海作品では、もちろん一定のクオリティはあったと思うんですけど、それでもテーマというか、描かれたものが僕はちょっと不快になってしまいました。

 まぁね、「君の名は。」から引き続き、美麗な絵作りなど、空の上の世界、ちょっと「海獣の子供」っぽいなぁという演出もあったりしたけどね。素晴らしいところは引き続き伸びている。

 あとキャストの熱演。違和感なく、引き込まれる声。しっかりできていた。

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