大河ドラマ『麒麟がくる』が、一般人にも歴史好きにも愛される訳

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「麒麟がくる」異例の放送休止

 2020年5月15日、NHKは今年度放送の大河ドラマ『麒麟がくる』について、6月7日放送予定の第21回をもって放送休止すると発表した。今回の決定に至ったのは新型コロナウイルス(COVID-19)流行による収録見合わせが原因であり、筆者を含め毎週の楽しみとして放送を心待ちにしてきたファンはやり切れない思いを感じているだろう。もちろん、制作陣の心情は想像に余りある。

 歴史好きとしては、大河ドラマが放送休止に追い込まれること自体が残念でならない。が、加えて本作は歴代の大河ドラマと比べても優れた点が多いことも、ファンの「麒麟ロス」に拍車をかけたと思われる。放送休止の発表後、一部報道では話数を削減しての年内完結が示唆されたが、SNS上では多数の視聴者から「放送回数を減らさず越年を」という声が寄せられたことも報道された。具体的な放送回数に関して現時点での公式なアナウンスはないが、筆者としても越年を望みたい。

 完結を望むのは、当然「ドラマとして面白いから」という理由もあるが、本作はこれまでの大河ドラマや「歴史創作もの」の作品にはあまり見られない特徴があり、それゆえに一般のドラマファンだけでなく歴史をこよなく愛する「歴史ファン」にも好評だからだ。

近年の研究動向を踏まえつつ、一般ファンも楽しめる内容

 本作の妙味を一言で表すと、「一般のファンには話として面白く、かつ歴史好きも納得できる構成になっている」ということが指摘できる。

 言葉にすると簡単に聞こえるかもしれないが、これが両立できない創作ものは少なくない。大衆ウケする話を意識するあまり歴史好きからすると史実と矛盾するような話になってしまうこともあり、反対に史実の再現に腐心するあまり大衆が離れていってしまうことも多いからだ。本ドラマはその点が素晴らしい。

 具体例を挙げよう。例えば、個人的に注目しているのは、本木雅弘さん演じる斎藤道三のキャラクター性である。一般のファンからすれば、本木さんの「怪演」によって思わず目を奪われるような強烈な人物として記憶に残っているだろう。この時点で、すでにドラマのキャラクターとしては文句のない存在である。

 加えて、実は近年の歴史研究で明かされてきた最新の学説が盛り込まれていることにお気づきだろうか。斎藤道三という武将は、「一介の油売りから成り上がった戦国大名」として知られてきたが、今ではこの「油売りから成り上がる」という部分が、彼の父である松波庄五郎という人物の功績であった可能性が極めて高いと指摘されている。つまり、私たちがこれまで「斎藤道三の国盗り」として認識していた一連の出来事は、親子二人による二代記だったということになる。

 そして、本ドラマでは道三自身がハッキリと「油売りから成り上がった父」の存在に言及している。これは近年の研究成果を取り入れた構成になっている証であり、歴史ファンも納得させられる部分だ。加えて、史実の道三が「優秀なことは優秀だが国衆たちからの支持が乏しかった」ために滅亡したと考えられるようになったことを受け、本作では「優秀だがこんな上司は嫌だ」というような人物像に仕上げられていたのも興味深かった。

 また、これまでの大河ドラマでは「顔面白塗りのバカ殿で、戦国時代なのに蹴鞠にかまけて織田信長に負けた愚か者」としてコケにされてきた今川義元も、本作での描かれ方は全く異なる。片岡愛之助さん演じる義元の姿は紛れもなく戦国を生きた一人の「漢」であり、そこに従来見られた弱々しさは微塵も感じられない。

 これも近年の研究動向を反映した描写であることは明らかだ。確かに桶狭間で敗れはしたものの、今川家を東海随一の存在に育て上げ、「海道一の弓取り」と呼ばれた彼の生涯は近年再評価されている。

歴史の「不確定さ」を上手く料理している

 ここまでは「近年の歴史研究で分かったこと」を反映している点を評価したが、反対に「近年の歴史研究でも分からないこと」の扱い方も非常に上手い。

 歴史学は、基本的にその時代を生きた人々の痕跡を収集し、整理して過去を解き明かしていく学問だ。しかし、今から500年近く昔の戦国時代に関する情報が現代に残されていない場合も多く、まだまだ解明されていない謎は少なくない。

 その最たるものは明智光秀が織田信長を討った世紀のクーデター「本能寺の変」だ。この変に関して、無数の歴史学者や歴史作家が「光秀はなぜ信長を討ったのか」という動機の解明を試みてきたが、根拠となる情報の少なさから未だ真相解明には至っていない。

 この件からも察しはつくかもしれないが、明智光秀という人物については分かっていないことが非常に多い。意外かもしれないが、現在ドラマで放送されている美濃・越前で活動していた時期について、その事実を裏付ける有力な史料は残されていない。彼が美濃・越前にいたことを裏付けるのは後年になって作成された史料であり、その信ぴょう性は決して高くない。

 光秀の存在をハッキリと確認できるのは信長に仕える直前のことであり、そこまでの足取りは謎につつまれている。

 しかし、本作はその「不確定さ」を上手に料理している。すでに判明している大きな歴史の流れに矛盾をきたさないよう気を配りつつ、光秀の足取りがたどれるようになった時期の彼と整合性がとれるような物語になっているのだ。

 例を挙げると、本作では、光秀は美濃にいた頃から細川藤孝や足利義輝といった室町幕府の要人たちと出会っている。もちろん光秀がその時期に彼らと会っていたことを裏付ける証拠はないが、一方で彼が歴史の表舞台に登場する時にはすでに彼らと近しい存在であったことが判明している。つまり、「光秀が歴史に登場する前から彼らと交流がないと説明のできない事実」が多いため、彼らとの出会いがセッティングされたのだろう。

 そう考えれば、一連のシーンは「歴史との整合性をとるため」に必要だったといえる。しかしながら、一般の視聴者からすれば彼らは自然な流れの中で出会っており、そういった性質のシーンだということに気づかなかったのではないだろうか。

物語が「歴史に残されている局面」に突入してどうなるか

 文章の書きぶりからも伝わっていると思うが、筆者はこのドラマを一人のドラマ好きとしても、歴史好きとしても気に入っている。だからこそ、やはり放送再開後の展開も気になってくるものだ。

 筆者が注目しているのは、恐らく放送再開後すぐに光秀が信長仕えはじめ、歴史の表舞台に登場する局面に突入すること。これまでは良くも悪くも「確固たる史実」というものが存在せず、ある程度キャラクターを自由に動かすことができた。しかしながら、このドラマの性質を考えれば史実をないがしろにしないと思われる以上、今後はそこに縛られてしまう可能性も否定できない。

 ただ、これまでの優れた内容を踏まえれば、この心配は杞憂に終わる可能性のほうが高いだろう。事実、筆者を含め多くのファンが、強烈な印象を残す斎藤道三の死後「道三ロス」になってしまい、本作の面白さが下り坂に差し掛かってしまうのではないかと懸念していた。

 しかし、フタを開けてみれば染谷将太さん演じる、道三に勝るとも劣らない狂気をはらんだ織田信長の姿があり、その魅力に「道三ロス」の心配は吹き飛んだ。

 加えて、休止前の放送を見る限り静岡大学の小和田哲男名誉教授をはじめとする考証陣と池端俊策さんをはじめとする制作陣の風通しも良好に感じられるので、これまで通り「ドラマとしての面白さ」と「歴史好きをうならせる研究の反映」が両立された物語を期待せずにはいられない。

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